世界を生むとき
−子供部屋のおばけ−

  「だからー、母さんが再婚するんだって」
 卓郎(たくろう)の言葉は、恵那(えな)にとってまさに寝耳に水だった。驚きのあまり、お気に入りのピンクのワンピースに、食べていたショートケーキの生クリームを落としてしまう。
「あーっ、鈍臭いよ、姉ちゃん。早くしみ抜きしなくちゃ、ヤバイって」
 卓郎はティッシュペーパーの箱を、恵那のいる机の方によこした。
 丸いちゃぶ台風の机の上には、ガラス細工のキリンやらペンギンやらがごちゃごちゃと並べられている。恵那はガラス製品が大好きで、よくママが彼女のために買って来てくれるので、それらは増える一方だ。
「うるさいなぁ! ……それより、本当なの、ママが再婚って」
「らしい。ま、母さんが決めたことだしー、いいんじゃない?」
「そんなの絶対に反対!」
「なんで怒るんだよー。ヒステリック女はもてないぞー」
「だって、……ママは『女』である前に、『母』であるべきだもの。そんなのダメ、絶対ダメ!」
 実のところ、エナは母――志津子と血の繋がりはない。志津子は妊娠しにくい体質らしく、なかなか子供が生まれず、孤児だった恵那を引き取ったのだ。そして、その一年後に卓郎が生まれた。けれど、志津子はいつも恵那に優しく、恵那と卓郎に平等に接した。だから、恵那は志津子が大好きだった。彼女に結婚して欲しくないと言うのも、決して我儘や意地悪からではない。志津子は何というか男運が悪く、いつもいつも暴力を振うような男を愛してしまうのだ。一番目の卓郎の父も、その次の再婚相手もそうだった。今度もそうに決まっている、それを分かっている恵那は、志津子さんがこれ以上傷つくのは見たくないのだ。
「アホらし。少女マンガとか昼メロの見すぎだって」
 卓郎は恵那を小馬鹿にするような表情で見下げる。そんな態度にカッとして、恵那は卓郎をキッと睨つけた。
「おーこわっ。姉ちゃんのワガママには飽き飽きだよーん」
 クネクネと身を捩らせて挑発する卓郎に、恵那は完全に頭に血が上ってしまった。恵那は卓郎を追いかけて殴ろうとしたものの、彼はすばしっこくて捕まろうとはしない。それどころか、わざと捕まりそうに見せかけるために、時々立ち止まったりまでするのだ。恵那は追いつけない悔しさに、手元にあった本棚から分厚い少女漫画雑誌を引き抜いて、手当り次第に投げつける。しかし、卓郎は器用に本と本の間をすり抜けてしまう。とっくに息が上がってしまっている恵那とは大違いだ。
「何っ、弟の、癖にっ」
「運動不足なんじゃないのー。僕は陸上で鍛えてるんだから、姉ちゃんなんかには負けないよーだ」
 さらに挑発するように、お尻を叩いて、「べろべろばー」までして見せる卓郎に、恵那は気づいたら叫んでいた。
「弟は姉に従ってればいいの! あんた最近ナマイキなんだから! そんな可愛くない弟なんていらない、卓郎なんて死んじゃえ!」
 言ってしまった。恵那が自制心を取り戻した時にはもう遅かった。卓郎は何も言わずにつかつかと彼女に歩み寄る。恵那は後にもひけず、その場でじっと立ちつくした。卓郎は側まで来ると、突然恵那の腹を思い切り殴った。衝撃で蹲る恵那に、卓郎は吐き捨てるように言った。
「お前なんて拾われたクセに、姉貴ぶるんじゃない! エナなんかどっかいっちまえ!」 恵那は言い返そうとしたものの、腹の痛みは相当なもので、立ち上がるどころか、言い返すことすら出来ない。
 卓郎はドアを乱暴に閉めるとそのまま、子供部屋を後にした。

 

 その時は怒りに支配されていて、恵那は気づきもしなかったけれど、注意深くしていれば気づけたかもしれない。卓郎が本当に悲しそうな――傷ついた顔をしていたことに。
 後々、恵那は自分の言ってしまった言葉の重さに悔やむことになる。

 

 そう。恵那が言った通りに、その日のうちに卓郎は死んだのだ。
 恵那は全てを悔やんだ。そして祈った。何度も、何度も、繰り返し。
(大好きなもの――甘いものも、ガラス細工の置物も、ピンク色の服も……志津子さんも全部いらないから、だから…………卓郎を生き返らせて!)
 卓郎の葬式の帰りのことだった。卓郎が遺体で発見された裏路地を恵那はぶらぶらと歩いていた。その時のことだ。恵那の願いを聞きつけたのか、一人の天使が現れた。
「要するに、タクロウって奴がお前の側に居ればいいんだな。いいぜ、俺がなってやる。俺がタクロウになって、ずっとお前の側に居てやる。その変わり、少しだが見返りを貰うけどな」
 なぜ天使が自分の前にいるのか。それ以前に天使なんてものがこの世に本当に存在するのか。――そんなことはこの際、恵那にはどうだっていいことだった。重要なのはこの天使の言っている内容だった。
「本当に、卓郎を生き返らせてくれるの?」
「生き返らせるってのとはちょっと違うが……まあ、お前の側にずっと居るのは確かだな」
「だったら、何だってする。わたしが好きなものは、全部あなたにあげるから」
「んなものいらねーよ。あ、でも記憶はちょいと弄らしてもらうけどな。お前が望むなら、そういうもんの記憶も全部消してやるぜ?なんてったって、お前は俺のご主人様だからな。でも、ちゃんと別に見返りの方も貰うからな。慈善事業なんかじゃねーんだから」
 男は、天使、と言うよりは悪魔のような笑みを、口に浮かべた。よく見ると、翼の片方には大きな傷を追っている。もしかしたら、天使は天使でも、堕天使というヤツなのかもしれない。けれど、恵那にとってはそれこそどうだっていいことだった。
 恵那がこくりと頷くと、天使は不敵に微笑み、「商談成立だな」と言った。
「ところで、あなたは何が欲しいの?」
「俺が欲しいのは、お前の気力だ。気力がなくなると、何をする気も失せちまうけど……お前にとっては好都合だろ? ずっと家にいれば、タクロウとずっと一緒にいられるんだからな」
「何だ、そんなものなの。……いいよ、いくらだってあなたにあげる。それより、あなたは何て名前なの?」
「お嬢ちゃん、天使には名前なんてないんだ、覚えときな。っつっても、どうせ忘れちまうか。ま、……友達にはナツカワって呼ばれてた」
 天使はぽんっと恵那の頭を軽く叩きながら言った。
「子供扱いしないで。私にだって恵那って名前があるんだから」
「エナ……ENAか。いい名前だな。まさに天性の『姉』だな、お前」
 ふっとナツカワの顔が優しくなった。今までの皮肉びた笑いではなく、何かを慈しむようなその瞳に、恵那はどきりとした。
「どういう、こと?」
「エナって名前をローマ字で書くと、ENAだろ。逆から読めばANE――姉、になるだろ」
「天使もローマ字なんか使うの?」
 素朴な疑問のつもりだった。けれど、ナツカワの表情がふっと陰ってしまった。
「……『友達』がな――そいつも天使なんだが、教えてくれたんだ。自分が死ぬ前には、丁度そういうものを学校で習ってたって」
「天使って、死んだ人がなるの?」
 恵那が尋ねると、ナツカワは恵那の頭に手を乗せて、再びシニカルな笑みを浮かべた。
「お喋りはもうおしまいだ。……お前の望みを叶えよう」

 

「嘘だよ……そんなの嘘に決まってる!」
 ナツカワと契約を結んだのと同じ裏路地で、エナは叫んだ。側にいるのは、ナツカワではなくて、ツルオカだった。エナはツルオカの大きな胸を何度も何度も叩きながら、ただひたすら叫んだ。ツルオカは抵抗するでもなく、ただただ目を伏せてされるがままになっている。
「嘘だよね、嘘って言ってよ。だって、そんな……それじゃ!」
「『自分の罪悪感を拭うために、ナツカワと契約を結んだみたいじゃない』ですか? ……けれど、これは真実です。真実は受け止めなければいけません。人は……何か辛いことがあると、忘れてしまったふりをしたり、それにしがみついたりしてしまいます。けれど、それを自分自身で消化していかない限り、決して前へは進めません。…………この世界を壊してください、エナさん。そうしなければ、あなたもタクロウ君も、それからナツカワも前へは進めません。ナツカワが人に寄生している間は、僕は彼を見ることはできません。だから、ナツカワとの契約を破棄できるのは、エナさん……あなただけなんです」
 ツルオカは淡々と言った。けれど、決して無責任には聞こえなかった。
 ――エナの心にもう迷いはなかった。

 

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